『対話の可能性』vol.1「デタラメでキレイになる。」 2

トランスクリプト『対話の可能性』vol.1 「デタラメでキレイになる。」 (2008年12月18日 渋谷 UPLINKで収録)
2◆ペテン師の目眩くアレゴリー的世界

宮台真司(以下、宮台):でもね、僕はね、今日、カタンさんのライブを見た後に、トークでここに上がるのはしんどいですよ。
日比谷カタン(以下、カタン):いえいえいえ、そんなことないですよ!! だって、そんな....
宮台:そんなことあるんですよっ! この本(『<世界>はそもそもデタラメである』*1)で長々と書いていることって、結局「カタンさんの芝居を見て、すげーって思ういう感覚がいいんじゃないの?」って言ってるんです。この本ではいろいろな映画や演劇を扱っていますけど、結局それを言いたい。カタンさん的なパフォーマンスこそがすべての元型だって言ってるんです。別に元型が神聖という意味じゃない。逆です。僕たちは、何万年もずーっと長い間、初期のオペラのように、いかがわしきものに眩暈してきたのに、「何、最近まじめになってんの?!」みたいな。
カタン:そうでしょうね。そういう感じがしますね。
宮台:ですよね。そういう感じで、すげー真面目に書いていたのに、カタンさんの圧縮されたパフォーマンスに、一瞬で完全に並ばれかつ凌駕されてしまうってことですよ。「言葉ってキツイっすよね」って感じ。(笑)
カタン:...もう、いや、何て言うんですかね。(※ほめられて恐縮して狼狽※)
...恥ずかしいんで、話を強引に他の話に振りますけど。(笑)
僕がテレビで宮台さんを初めて拝見したとき....その時の議論のやりとり・切り返し方とか「今、なんかの発言について怒っている人がいるけど、宮台さんは怒らずに、こういうふうに言った」ってのが、凄いカッコよかったんですね。一挙手一投足を覚えているわけではないんですけど。「あ、こういう状況であんな風に話せるのは、凄く面白い!」と思ったんです。語られている専門用語的なことは全然わからなかったにもかかわらず、話が面白い。宮台さんは、今自分はどういうメディアで何を発言しているのか、ということをちゃんと踏まえているというスタンスが、僕には凄くカッコ良く見えた。他の人がどんどん破綻してしまって、もうただ「わーーーっ」ってなってるだけの中に、宮台さんがポツンと言った一言がもの凄く粋だったりすると「おおおっ」って思ったんです。
宮台:仮にね、そういうことがあったとすれば、僕は、色んな幼児体験があるせいで、言葉をまったく信じていない人間だからです。今でも、そうなんですよね。だから、逆に、言葉はどうとでも使えると思っているんです。あと、僕がよく言ってるのは、ミヤダイと<ミヤダイ>は違っていて。メディアに出てるのは<ミヤダイ>で、そんなものが叩かれようが、いじられようが、痛くもかゆくもないわけですよ。そういう感覚があるんで、カタンさんがおっしゃったようなこともあるのかな、という感じがしますね。
カタン:宮台さんが、たとえば、こういう場でも、テレビなりラジオなりで臨まれるときのスタンスっていうのは、やはり見世物的な要素っていうのはあるんですか?それが前提にってことになるのでしょうか?
宮台:そうです。もし僕に真面目なものがあるとしても、真面目に振る舞うよりも、見世物的に十分に踊って、その果てに「あ、ホントはこういうことかな?」みたいに気付いてもらうという戦略です。それを、ここ(『<世界>はそもそもデタラメである』)では「アレゴリー」って言葉で示してあるんです。アレゴリーって、シンボルと対立して理解される概念なんですね。ベンヤミンアドルノなんかも同じようなことを言っていますけれども。「シンボル」っていうのは、何を指すのかが直接的にはっきりしているものです。「高い塔は、崇高さのシンボル」とかってね。ゴシックの教会建築とかですよね。アレゴリーってのは、それとはまったく別に、それ自体が何を指しているのかまったくわからない。さっきの話で言えば「でたらめ」だったり「カオス」だったりするわけ。でも「一瞬、何かが見えたような気がする」んです。それをベンヤミンが「瓦礫の中に浮かび上がる星座」っていうふうに言うんですね。これはバロックっぽい概念です。またベンヤミンはフランスの人ですが、フランスっぽい概念です。「一瞬浮かび上がったように見えるもの」が「アレゴリー」なんですね。芝居の本質ってのはそういうもので、「これは”人生はいいものだ"ってことが言いたいんだな!」っていう芝居は、はっきり言えば馬鹿向けの芝居です。別にそれでもいいんです。僕は「それもいい」っていうのは掛け値なしで「いい」と思っていて、僕も寅さんや水戸黄門で泣いたりするんです。そういう自分自身を含めた「ガラクタ」が並んでいる中で、「俺、水戸黄門でこんなに泣いちゃったなあ」なんていうカオスが色々ある中で(笑)、そういうものの全体の中で「何か見えたような気がする」みたいな感じでいいんです。「何か見えたような気がする」と思った瞬間に、「なんだお前、そんなので泣いちゃって、この野郎」って誰かに蹴られて、蹴られた瞬間に忘れちゃったみたいなのがいいんです。そういうものが「アレゴリー」なんですよ。そういう意味で、僕はカタンさんの芝居を見せていただくたびに「これが見たかった」って思うんです。「これが見たかったんだ、俺は」ってホントに思うんですよ。
カタン:...所在がなくなってしまいました...
宮台:僕は、カタンさんを初めて見たときからそう思いましたよ。「これが見たかった」って。って、そういう風に思う人がいっぱいいると...
カタン:生活にも困らない....
宮台:そういうことですね(笑)。あと、もうちょっと音楽状況もまともなものになるのかな?っていう気がします。
カタン:いや、でも、「音楽の状況」は、このまま、また変化していって、以前のクオリティを作り出すような環境にはならないんじゃないかと思うんですよね。
宮台:そうですねえ。
カタン:もっとほんとに私的なものになっていって、要は個人の管理下になっていって、コミュニティが増えるだけで。圧倒的な影響力を持つものというのはそれこそもう出尽くしていると思うんですよ。先にも言いましたけど、僕がなかなか作曲ができなかったのはその「出尽くしている」ところで、自分が何をやったらいいのか、まったくわからなかったんですね。衝動が勝っていれば、多分、人前で歌えたり、「ギターかっこいい!」だけでやったと思うんですけど。
僕にとってそんなことは、まったく理由にならなくて。おそらく、今のお話を伺った後で、自分が何がやりたかったのか、ということを考えると「見世物としてちゃんと成り立つものをやりたかった。そういうものができるようになるまでは、手を付けられなかった」っていうことかもしれない。
それと、そもそもは音楽云々の問題じゃなくて、自分を試すのが怖かったという、非常に稚拙でガキな抵抗をしてただけだったんじゃないかと。実際活動する前はいろんな本を濫読して、音楽も聴きまくって、映画も見まくって。で、それがなんだったかというと、ただの理論武装。実際に手を汚して、それが通用しない現実を思い知るのが恐ろしかっただけで。
ちょっと話が逸れましたが、もし今後僕が、誰でも作れそうな、しょうもない曲を新曲として発表できるようになるのであれば、いわゆる量産は可能でしょうね。でも、そんなものは多分、見世物のレベルに達していないから、他のことでフォローして見世物化しないと。おそらく僕の中では、「見世物」として成り立っていないものは、おそらく発表できるものではない、ということになっているのかなと思います。
宮台:今日の着流し風の衣装で入ってきて、プラグインして、お座りになって、グルグルグルって始められるっていう...。様子を見ていて、チェコ大使館で見たときも感じたことなんですが、カタンさんの「ブート段階」って、結構「魔の時間」ですよね。普通のミュージシャンがパフォーマンスを始めるときって、もっと普通にスムーズに始めるでしょ? 日常からなだらかに繋がっているからだと思うんです。逆に、カタンさんのモードって、シンボルの世界に生きている僕たちとは、やっぱり断裂があるんです。そういうところで「カタンさんのはホントに見世物なんだ」って思うわけ。ソコに行くときに「川を渡る」という。しかも濁流というか急流みたいになっていて、「渡れるか、渡れないか、微妙かも」って思いながら渡っていらっしゃる感じが、僕にはするの。今日もしました。立ち上がりのとき、結構ハラハラするんです。「カタンさん、渡れるかな?」って(会場:笑)。カタンさんは渡れるとして「俺たちも渡れるのかな?」って...
カタン:いいですねえ。
宮台:...って思うんですけど、しばらくすると渡っちゃってる! その感覚って、CDとかDVDで聴いたり見たりしても、よくわからない。DVDやCDを聴いたり見たりするっていうのは、日常の時間の中で普通に経験することなわけ。「心がけがなってない」んです。僕は人形劇が好きでしょ? 結城座の人形芝居なんかもそうだけど、ときどきDVDが売ってるんですが、見てもまったく意味がない。実際見たときの100分の1以下の力しかない。っていうふうに言うと、誰も買わなくなっちゃいますからアレですが(笑)。やっぱり、そういう感覚にならざるを得ないっていうことなんです。カタンさんのは「川を渡るのが難しい」ってところで成り立っているパフォーマンスなので、CDとかDVDでそれを知るっていうのは凄く難しいよ。
カタン:...じゃ、もうCDは廃盤にしましょうかね。(会場:笑) ヤフオクに出してください。私もヤフオフに横流して商売しますから。(会場:笑)
宮台:もっとハイテクな時代になって、映画『マイノリティ・リポート*2みたいに、3Dで気配まで含めて仮象が臨在してしまうようなテクノロジーがあれば...。
カタン:...すんごい迷惑な話ですね。
宮台:ですよね。そうすると、非常に反社会的になって、カオスを引き起こせるから、迷惑は迷惑でいいんじゃないかなと。
カタン:反社会的っていうのも、一個人にそこまで効力を持つものってできるんですかね?
宮台:どうなんでしょうね? 僕にもよくわからないけれど。今僕が申し上げたことって、僕が色んな本で「感染」っていう言葉で言ってきたことです。CDやDVDで感染するって、やっぱすっげー難しい。映画と芝居の違いがそこなんです。芝居は「よくわからないけど凄い」って体験を与えることができるんですが、映画っていうのはわからないと「何だコレ?」になっちゃう。人形劇もそうだよ。人形劇の多くは「よくわからないで凄い」ものなんです。逆に言うと、シュヴァンクマイエルみたいなのは、わかりやすすぎる。「何これ、始めからわかっているじゃん」みたいな感じ。「お耽美やりたいんですねー」みたいな。そうじゃなく、ただの「へのへのもへじ」の人形が出てきて「コレで何かやるっていうわけ?」って思わせて、気がつくと川を渡っちゃっているみたいなのが、凄い人形芝居なんです。そういう人形芝居って、そこにいないと体験できない何かなんですよね。
カタン:それはやっぱり、子供のときに体験する、もしくは成長してから年代それぞれで体験してみるとするじゃないですか。じゃあもう大人になって感覚とか常識ができあがっている人が、人形芝居の凄さというか「川を渡る/渡らない」にまつわるものを見たときに、それをわかる感覚というか、そういう脳味噌の思考回路になっているもんなんですか?
宮台:僕もよくわからないんですが、僕が言うような「芝居/見世物」と、世の中で「パフォーマンス」とか「アート」とか言われるものの違いって、どこにあるのかなっていうことです。たぶん、大人になって初めて体験して理解できることだとしたら、言葉で初めからちゃんと説明できるようなものに限られちゃうじゃないかな? 今日、カタンさんは着流しで入っていらしたでしょ? 僕は小さいとき京都にいたので、そのいかがわしさから、やっぱり円山公園の「蛇娘」の出し物を思い出すんです。だから...そうだな...こういう風な比喩がいいかもしれない。手品師ってペテン師でしょ? でも手品師を超能力者だと思うヤツがいる。これは昔「ユリ・ゲラー問題」として何度も議論された問題です。彼は有名なペテン師です。でも彼を超能力者と思ったヤツもいる。これは、さっき言ったオペラを芸術だと見做す勘違いと同じだね。ペテン師を超能力者だと勘違いところから、いわゆる近代芸術が始まった。みなさんは「なんだよ、ペテン師かよ!」って思うかもしれないけど、違うんだよ。ペテン師のほうが凄いんです。 超能力者よりもペテン師のほうが格が全然上なの。この感覚がわかれば、僕の言いたいことは伝わるのかなって。日比谷さんって、どう見てもペテン師じゃないですか(笑)。
カタン:「ぺてん」はひらがなだと思いますよ。(笑) ペテン師だといいですねぇ。
宮台:うん、ペテン師のほうがアーティストよりか上だと思うから。だって、考えみてよ。ペテン師のほうが論理的に上でしょ? その証拠に、ペテン師が途中からアーティストに昇格することはありえないけど、逆に、アーティストだと思っていたらペテン師だったっていうことはありうるでしょ? 「この人スゲー、アーティストじゃん!」って思わせておいて、「なーんちゃって、騙されたでしょ?」って言えるわけだからさ。
カタン:うん、そのほうがいいですね。
宮台:でしょ? 超能力者とペテン師じゃペテン師が上に決まってる。「私は超能力者である」「凄い超能力者ですね」「なーんちゃって、騙されやがって、ばーか!」って言えるでしょ?(会場:笑)
カタン:そうですねえ。はっきりしてますね。じゃあ、もう、超能力者は廃盤ということで。(会場:笑)
宮台:だから、やっぱり僕は、ペテン師を喜ぶっていうことを....
カタン:それって、教育できることなんでしょうか。
宮台:うーん...どうなんでしょうねえ。そういう見世物って今あんまりないからねえ。
カタン:あの、ちょっと蒸し返すような感じになりますけど、宮台さんの書かれた『14歳からの社会学*3を、もの凄く面白く拝読させていただいたんですけれども、凄くわかりやすく、現実的に、今年のネタも入っていますよね。「今起きている問題」のことをうまく紐解いて下さっている本だと思うんですけど。『恋空』の話も載っていますよね。『恋空』はペテンではないんですか?あれに騙されている人は、あれはペテンだと思っているんですか?それとも、あれに乗って、あれは超能力だということでやってるんですか?(会場:笑)
宮台:レイプされたり、流産したりしても「そんなもん関係ない、お前が好きだよ」「お前の気持ちはわかってるよ」とか言われると、一瞬で立ち直る。そんな主人公に共感する...って、これは単なる馬鹿でしょ?
カタン:支持している層は、そんな実体験まったく持ってないわけですもんね?
宮台:ギャハハなわけ。「そんなことあるわけねーじゃん!」って。ギャハハって笑いながらペテンとして楽しむならアリだよ。ところがギャハハどころか、僕が映画の『恋空』見たとき、周りの子が泣いてたの。『恋空』で泣くっていう振る舞い自体が、ギャハハ的パフォーマンスの仕込みかと思ったほどです。まぁ、僕も水戸黄門で泣いたりするから人のこと言えませんが(笑)。でも「水戸黄門で泣いちゃったぜ、ギャハハ」って、泣いてる自分をネタにできりゃいいですけど。そういう感じでは全然なかったよ。
カタン:『恋空』を仕掛けた人たちはペテン師なんですか?
宮台:完全にペテン師です。だって僕と世代変わらないもん(会場:笑)。でも、見てる人たちが、ペテン師を超能力者だと思っちゃってるからな。
カタン:じゃあペテン師の仕事としては成功しているんですね?
宮台:その通り。基本的に作っているのはテレビの人たちだしね。ホントのペテン師の集まりでした。
カタン:えー『恋空』はDVDになっております。廃盤にはなりませんよ。売れてますからね。
宮台:でもね、僕は、恋空のスタッフたちって、凄いなって思ったんですよ。彼らは携帯小説で起こったことを分析したんですね。こういう仕掛けのペテンや手品を、超能力だと思うような現象が起こっているんだろうなって、分析し尽くして映画にしているんです。だから、映画を作っている人たちは全てを自覚してると思います。「よくぞこここまでペテンを再現したな」って。それはいいんですけど、みんながマジに受け取るっていうリテラシーのなさが...
カタン:...凄いですよね。一億総ユリ・ゲラー信者的というか...(会場:笑)そういう状況だと子供が産まれたらユリって名前を付けちゃうんでしょうかね。
宮台:でもね、ユリ・ゲラーの出た70年代のあの時代を思い返すと、何となく胸がきゅんとするんですよ。つまり、あのユリ・ゲラーって、今はデタラメのペテン師だということになっていますが、でも、ああいうペテン師が大手を振って歩いていたあの時代って良い時代だなって思いませんか?
カタン:僕は、矢追純一さんが。
宮台:ああっ、あまりにも最高ですね! 『水曜スペシャル』ですね!
カタン:...とか、『水スペ』の川口浩さんとか...「ヤラセ」を「プロレスを見る感覚」っていうんですかね。あの感じっていうのが僕は凄く好きなんだと思うんですよね。見世物的に「おおっ」って言わせてもらいたい。超能力現象云々に関しては、当時どういう騒ぎがあったとか記憶がないですけれど、その「信じ方の度合い」っていうのは興味があります。よく『TVタックル』とかで超常現象をテーマにした回などでやってた、大槻教授とたま出版の韮沢さんとのやり取りっていうのは、ある意味僕にとっては見世物なんで、そういう意味では成り立っていると思うんですが。あそこに出てた方々は、お互いそれを信じて切ってちゃんとやってるんですか?もしくは、番組として役割を演じて「今回は、超常で行きます。ディベートになるんで、適当にその辺分かれてください」って言われてやってるんですか?
宮台:いやね、たま出版の韮沢さんとか、水曜スペシャルに関わっていた矢追さんって、マジな人なんですよ。矢追さんなんて、UFOにマジに関わり、その後、マジで環境運動家になるでしょ? 両方とも人類の運命に関わるからって。
カタン:ああ、いいですね!
宮台:うん。それは当事者がマジだからこそ、見世物として面白いわけです。「矢追さん、これでマジなのか?!」っていうのが、凄くイイ感じなんです。ユリ・ゲラーの時代って若い人は知らないだろうけど、凄かったんです。「皆さん、家にある壊れた時計を持ってきてください。腕時計でも目覚まし時計でも。さあ、これから念を送ります。見て下さい、時計が動きませんでしたか?」ってユリ・ゲラーが言うと、時計が動いちゃうんですよ!! 現に僕の持っていた時計は動いちゃった。その後、うちの学校は「動いちゃったよ!」って時計を持ってくる小学生だらけに(笑)。
カタン:え、それは、なんで動いたんですか?自動巻きとか手巻きなんですか?
宮台:いいとこついてますねー。多分そういう現象だと思うんですよ。
カタン:ムーブメントが熱に反応して少し駆動したという...
宮台:そういう感じ。10個に1個か30個に1個かわかんないけど、何個かに1個の時計は、「壊れたと思ったんだけどネジ巻いてなかっただけ」みたいのがあったんでしょう。
カタン:じゃ、クオーツではありえないということですか?(会場:笑) Gショックでは、それはない?!
宮台:当時はまだクォーツはないの! だから、当時ならではの芝居ですよ。
カタン:そういうことなんですか。
宮台:思い起こせば、日本全国で、いや全世界でとも言えるんですが、頭痛いような現象が起こったんです。でも「あー、あのヘタレな時代」っていう感じで、愛おしいなぁ。つまり「デタラメ」だったんですよ。今の時代も同じように、300年後から振り返って見ると「環境が大切だとか言ってたんだよ。こいつら馬鹿じゃねーの?」ってなる可能性があるでしょ? たぶん宮崎駿ってそう思っているのね。だから『崖の上のポニョ』って、温暖化を徹底的に嘲笑しているでしょ? 真水の中に海水魚を入れちゃって、最初から思い切りのけぞりますし。映画批評家の町山智広さんなんかマジで怒ったりしてました。でも「ユリ・ゲラーに怒ってどうすんだ」って感じかな。「それは超能力じゃない! 手品じゃないかっ!」って怒っても、「手品のつもりでやってるんですけど」みたいな(笑)。でも僕は、『ポニョ』をそういうふうに叱る振る舞いが、デタラメな見世物に見えて、とても楽しいんですよ。町山さんもそういうつもりかもしれません。
カタン:そうなれば、もっとちょっと楽しくなるんですよね。今回は「デタラメでキレイなる」ってテーマですが。それで言うと「キレイ」っていうのはどうしたらいいんですか?美学っていうのは...
宮台:僕がわかりやすりと思うのは、今日のカタンさんのライブです。「これ、お笑いミュージシャン?」って感じで見てたのに、最後のほうは感染しちゃって、「すげー、これ、なんだか芸術かもしれないな?!」って感じで終わるじゃないですか。そこじゃないですか? 美術館で見るようないわゆる芸術とは違うけれど、「絶対なにかだな」ってみんなに思わせる。間違いなく「よくわかんないけど凄かった。」っていうカタルシスが起こりました。僕が人形劇についてのトークショーで話すとき、必ず「よくわからないけど凄かったら、良い人形劇です」って言います。「よくわからないけど凄い」がキーワード。今日のカタンさんのパフォーマンスは、実は人形劇でした。カタンさんは人形つかいでした、というより人形そのものだったことが証明されて...
カタン:...ヒトデナシなんですよ。(笑)
宮台:まさに"ヒト"で"ナシ"ですね。(笑)