『対話の可能性』vol.1 「デタラメでキレイになる。」 1

トランスクリプト『対話の可能性』vol.1 「デタラメでキレイになる。」 (2008年12月18日 渋谷 UPLINKで収録)
1◆フキンシンな美学

宮台真司(以下、宮台):おつかれさまでした。よろしくお願いします。とはいえ、僕の話なんかに時間使うのはもったいないよぉ。もっとライブやらないの?
日比谷カタン(以下、カタン):(ライブでは)ちょっとしゃべりすぎてしまって、ホントに集中が切れそうになりましてねえ。あのまんまいっちゃうとホントに色んなことがどうでもよくなってホントにデタラメになるんですよ。まあ、そのほうがキレイになるんであれば、ライブなんてやめちゃったほうがいいですけど。...みたいな話をするんですよね(笑)。あ、強引ですか?(※客席に向かって※)デタラメなんだからいいじゃないですか。
宮台:みんなに聴いていい? 今日さ、カタンさんを初めて見た人ってどのくらいいるの? 半分くらい? 僕ね、カタンさんのライブを最初に見たのが、チェコ大使館で開催されたシュヴァンクマイエル*1についてのドキュメンタリー作品の上映会なのね。これは上映とライブを組み合わせた複合イベント*2でした。僕はそのとき、シュヴァンクマイエル人形アニメよりもカタンさんのパフォーマンスのほうが面白いと思いました。そのしばらく後、チェコ大使館も絡んで、シネセゾンシュヴァンクマイエル映画特集のオールナイトイベント*3があったんです。そのとき全体のスピーチを僕が頼まれた。シュヴァンクマイエルというと、ある時期からゴスロリ系の女の子が集まって見るようなゴスロリアイテムになって、その場にもゴスロリがうようよいたんです。だから「お耽美を期待して見にきて、期待通りお耽美を楽しんで帰るようなヤツは、人形劇の本当の面白さを知らない。チェコには、ブジェチスラフ・ポヤル*4とか、イジートルンカ*5とか、必ず見る側の期待を裏切って名状しがたい何かを観客に持ち帰らせる作家たちがいるんだ」という話を...
カタン:...上映の前にしたんですよ。
宮台:上映の前にしたんですよ。(会場:笑)
カタン:凄いですよね(笑)。私も客席の後ろで笑いをこらえていたんですけど。
宮台:(カタンさんは)笑ってました! シネセゾンの上映会が、チェコ大使館のときみたいに、日比谷カタンのパフォーマンスが見られるイベントであれば、「日比谷カタンさんのほうが全然面白いよ」って言いたかったんです。チェコ大使館で見たときに思ったのは、「カタンさんは人形よりも人形っぽい」ってこと(会場:笑)。人形ってのは、形代(かたしろ)であって、実体が何なのかよくわからないのがポイントです。モノかと思えばヒトのようでもあり、ヒトかと思えばモノのようでもある。チェコ大使館のときも、この人は芸術なのか、芸術家のフリをした食わせものなのか。なんだかよくわからない存在だと思ったんです。
カタン:...僕なんかただのいちデザイナーなんですけどね(会場:笑)。本当に、そういう風に言っていただけるのは有難いんですけど、僕の中ではあまり芸術とかの意識がないので....
宮台:僕ね、今日のライブ聞きながら、いっぱいメモしちゃったんですよ。
僕は、小さいときから京都にいたんで、人形芝居とか神楽芝居とかをずっと見て育ってきたんです。そうするとね、やっぱり"懐かしい”んですよ。僕、最初にカタンさんにお会いしたときに巻上公一*6のことを思い出したって申し上げました。巻上公一っていうのは、ヒカシューのボーカルで、リーダーで、ピンクフロイドのところの劇団で修行してた人ですね。巻上公一が音楽活動を始めたのは、70年代末くらいかな? もう30年も前になるけど、そういうのも思い出したし、僕のちっちゃい頃の思い出も思い出しました。何を思い出すかって、キーワードは「見世物」なんです。
カタン:そうですねえ...僕も見世物は好きですねえ。
宮台:ですよねえ。1つ質問をしていいですか?今日、皆さんがご覧になったような「見世物流スタイル」っていうのは、どうしてできたんですか?
カタン:ライブ中にも言ったんですけど、2000年に最初の曲を作ったときは、人前で演奏する予定もなかったですし、そもそもこういう偽名?を名乗って活動することになった経緯というのは...もともとアコースティックギターの愛好者が集まる掲示板(アコギな野郎*7)にカタンというハンドルネームで書き込んでいたんですよ。確か1日に1万以上アクセスがあって、いろんな議題を掲げてかなり盛り上がってました。オフ会なども頻繁にあって、多いときは70人超ぐらい集まったほどで。そのときに担ぎ出される格好で、人前に出るようになったんです。その掲示板は、後に2ちゃんねる並みに荒れて閉鎖に至るんですが、ちょうど同じ頃にURiTA*8という歌い手と知り合って彼のお誘いでサポートをさせてもらったり、色々なことが動き出しまして。で、URiTAのサポートがなくなった2001年、彼の影響を受けて僕も独りでなにかできないか。と思っていたところに例の掲示板で知り合ったスズキシンゴさん*9からライブのお誘いを受けたんです。でもその時点でオリジナルは2曲しかなくて。2001年の年明けに4月か5月のライブまでに、あと何曲か作らなくちゃいけない、ということを決定されましてですね。慌てて作ったんですよ。最初は、もう、それで精一杯でした。
ただ僕はこういったキッカケでも無い限り、おそらく音楽的活動をすることはなかったはずなんです。オリジナルなんて自分には作れない。その前段階で「全てやり尽くされている」という絶望感があって、何をやったとしてもたかがしれている。「唄いたい」とか「楽器を弾きたい」といったシンプルな動機だけで、音楽活動をする意味を感じられない。という強迫観念があるんですよ。これは今も変わりません。が、当時はその観念を払拭するほどの衝動があって・・・
で、やると決めた時点で何かふっきれたのか、それまでの自分を総動員して曲を作ったら、今のようなカタチになったということなんです。
今でも曲の作り方はあんまり変わっていないんですが、ただ、ライブの形態については、お客さんの反応がどうなのか、は意識していきました。やっぱり、お金を取るわけですし。その「価値」とはどういうことなのか。音楽一本で勝負できない僕にとってそれは、ライブで唄うだけ、それっぽいパフォーマンスをするだけでは成立しなかったんです。対峙したお客さんにとって面白いかどうか。を考える方向にどんどんシフトしていったんです。だからといって迎合するような、ベタにやるのだけはどうしてもイヤで。シュールだったり不条理だったり、意味不明なんだけど面白いもの。何かそこに訴えかける、というところを探してきたような感じがするんですよ。そういった経緯があって結果的には「見世物」的なものになった。ということだと思います。
宮台:なるほど。あのね、たとえばさ、クラッシック音楽の歴史を知っている人なら、オペラって最初はメディチ家が婚礼の余興として開発した見世物だということをご存知だろうと思うんです。それが17世紀の初めのこと。「バロック=ゴテゴテ文化」の名に相応しく、反宗教改革的で、ちょっと腐った匂いのする見世物でした。それが18世紀にかけてドイツに波及していったとき、真面目なキリスト教信者たちがオペラを「真面目に見る」ということをやり始めた結果、「音楽からメッセージを受け取る」とか「芸術として受け取る」という話になったんですよね。だから、もともと音楽も芝居も映画もそうなんですが、原型は「見世物」だったんですね。
カタンさんってカレイドスコープ(万華鏡)みたいだと思いませんか?子門真人*10みたいな声を出すかと思えば、巻上公一みたいな声も出すし、どんな地声かわからないじゃないですか。
カタン:地声が嫌いなんですよ。それを変えて出すしかないみたいなところで、色々やったりしていて。それを歌の中でやっちゃおうとか、思っただけなんですが。
宮台:はっきり言ってアニソン声も出せますよね?
カタン:あー、そうですねー。
宮台:なので、その部分だけ取っても、「巻上公一」的っていうふうに思う人は思うでしょ? ギターもね、ロマ(ジプシー)の弾くギターのようでもあるし、不協和音の使い方とかは、ロバート・フリップKing Crimson)のやってたクラフティ・ギタリスツっていうアート志向のプロジェクトがあるんだけど、そういう風に思わせるところもある。「アート」かと思えば「見世物」らしく、「見世物」かと思って見ているとふとカオスの中に「アート」が見えた瞬間があるような気もしたり。
カタン:好きなものを好きな感じでやれたらいいなって気持ちはあるんですが、ごった煮的に、めちゃくちゃに、整合性だとか理由だとか意味をあまり求めてしまうと違うので。
そういえば・・・宮台さんが以前、宮崎駿さんが『(風の谷の)ナウシカ*11を作られたときに"最後どうなっていくか自分でもわからなかった"と言っていた、と書いていらしたのを読んだんですけど。
宮台:『風の谷のナウシカ』の連載版のほう。ラストはカオスですね。映画のほうは予定調和ですけれども。
カタン:あの感じを僕は多分やりたいんだと思うんです。あまり自分の中の予定調和過ぎるものをやりたくないというか....実際のところ、僕はそういうものを作るキライがあるんですよ...
宮台:わかります!
カタン:...それをちょっと避けているところがあるんだと思います。
宮台宮崎駿もホントはカタンさん的な要素があって。最近それが垣間見えたのが『(崖の上の)ポニョ』ですよ。もうデタラメなんですね。彼(宮崎駿)はデタラメがやりたくてしょうがないんですが、観客のレベルが低いのでね。観客からヒューマニタリアンに見えたりエコロジストに見えるようなフリをしているわけ。で、そういうふうに受け取る観客を徹底して馬鹿にしているのが宮崎駿という存在なんですね。私は、大喧嘩したこともあるので、よくわかってるんですけどね(笑)。社会学や人文系の領域では「美」と「美学」ってのを分けるんですよ。「学」ってのは「学問」の「学」ね。「美」はビューティフルの「美」で、英語で「ビューティ beauty」。「美学」は、美顔のエステシャンとかのと語源が同じで「エステティクス aesthetics」。「エステティズム aesthetism」といえば、シュヴァンクマイエルみたいな「お耽美」って意味になります。
 「美」ってのは文字通り「美しい」んです。「美学」っていうのはどうかというと、たとえば「一見美しくないモノの中に、ふと何かトテツモナイものを見ることができるもの」を言うんです。(※客席に向かって※)こういう話って、しゃべっててつまんねえなーって思うんだけど(苦笑)、ちょっとごめんなさいね。僕が言いたかったのはね、カタンさんって凄く「美学」的で、アーキタイプ(元型)*12を感じるわけ。僕が幼少時に見たモノを感じるっていうのもあるし、僕が今まで見てきた面白いと思ったものが凝縮されたように感じる。それは個人的な感覚でもあると同時に、もともと歴史的な意味でアーキタイプなんです。語源は同じだけど、アルカイック(初期ギリシア的という意味のフランス語archaïque)なんです。
 ギリシア神話とかギリシア悲劇っていうのは「美」を描きたくないんです。「叙情」を描きたくないわけ。むしろ「カオス/めちゃくちゃ/デタラメ」を描きたい。世界というものの本質にあるデタラメを描きまくって、デタラメの中に人がふと美しいモノとか神聖なるモノを見えたように思わせて、またそれを嘲笑して、カオスの中に巻き込んで、あれって幻覚だったのかなって思った瞬間、また見えたような気がして...で、結局、見えたのか見えなかったのか、よくわからなかったというふうになるのが基本。
 別の言い方をすると、日本では、もともと見世物って二つの形を取っていたでしょ? 「奉納芝居」という神様を喜ばせるための芝居と、「門付芝居」という偉い人のところに行って家の門の前で演じてお金をもらうっていう芝居。どっちが原型的かって言うと、奉納芝居が原型ね。神様の喜ぶような芝居を、金持ちの前でもやってあげることで、お金をもらうっていうね。これも大事なことで、神様ってさ、人間が真面目に表現したものなんか喜ぶわけないでしょ? だって、神様のほうが真理を知ってるし、「美」を知ってるんだからさ。だから神様を喜ばせようと思ったら、人間が「うーん美しい!」と思ったり人間が「これこそ真理だ!」と思うようなものをやってもダメなんですよ。むしろ「めちゃくちゃ」をやってあげるんです。すると、ちょっと神様が喜ぶ。かろうじてね。だから、今日のカタンさんの様子も、神様がおられたら、とっても喜んだと思うんだよ。
カタン:どうなんでしょうかねえ?(一同笑)そうだったら有難いですけどね。無神論者の自分が言うのもなんなんですが。
宮台カタンさんは、エコロジーも嘲笑されているし、ヒューマニストも嘲笑されているし。すべて嘲笑されておられるでしょ? 歌詞において嘲笑されているだけじゃなくて、トークにおいても徹底的に嘲笑されている。
カタン:そうですね。ただのネタにして...(一同笑)
ホントに"不謹慎"..."フキンシン"は全部カタカナと思っていただいていいですよ*13。そういう感じの...
宮台:ですよね! フキンシンじゃないと、神様って喜ばないからね。
カタン:あーいいですね、フキンシン! フキンシンにマジメでありたいです。
宮台:ですよね。それがカトリックプロテスタントの違いでもあるんです。もともとの宗教って、そういうことを原型にしているわけ。神様は、人間が作ったものなんてどうせ喜ばない。人間が神様に近付こうとしても、カオスの中にちょっと何か見えたような気がするくらいまでしか近づけない。この本(『<世界>はそもそもデタラメである』*14 )で「デタラメ」っていう言葉を使ったのものそういう意味です。みんなが美しいと思うような秩序とか形とか対称性とか。あるいは、人が「じーん」とするような叙情とか。そんなのは、ただの「パターン」なんですよ。「パターン」なんて、クソ。ゴミと同じです。まぁゴミはゴミで、カオスの部品としては意味を持つわけです。あまたあるゴミの中の1つとして人間の感情があるとか、人間が喜ぶ形式たとえば対称性があるってことです。ゴミの中に何かが浮かび上がることがあるって意味じゃ、完全にムダとはいえない。叙情や秩序や対称性を徹底して嘲笑するっていう意味で、カタンさんの今日の見世物には感動しましたよ。
カタン:(※無言でお礼のお辞儀※)
宮台:なぜ感動したかというと、僕の目が悪いせいかよくわかりませんけど、やっぱ何か見えたような気がしたんですね。こう、何か降りてるような...気がしてしまって。
カタン:あああっ...降りてましたかっ?!
宮台:ええ。それを見てしまった僕が、また僕がカタンさんに嘲笑されているような。
カタン:いやっ、決して...僕は...降りてくるというよりは、シンドラー社製のエレベーターで降りてます、みたいな。(笑)というか何かが降りてくるという実感はないんです。というか僕の場合はあり得ないです。よく音楽をやる側の人が、「降りてくる」とか「心を込める」とかいうことを自らおっしゃってから唄ったり演奏したりしますよね。
宮台:うん。
カタン:あれはもう、さっっぱりわからないですね。
宮台:(笑)
カタン:心がこもってて打たれたかどうかは、聴いた側が感じることであって、前もって言ってどうするんだ、っていうことですよね。その辺が僕は多分、大っ嫌いなんですよ。
で、そういうところを一切なくして、「音楽に対する先入観」というのを、先ほど宮台さんもおっしゃったような「表現」という...
宮台:そう、「表現」として「鑑賞する」っていうね。
カタン:そうありたいんですが、「先入観」とか「思い込み」というフィルタを通して、音楽というものに対峙しようとする、ということが既に目的が変わってしまっている。
宮台:そうですね。
カタン:「予定調和の良さ」っていうのはもちろんわかるんですが、あまりにも最初から最後まで、いわゆる「芸術」だとか「表現」とかいう括りで、偉そうにしてしまうというのが、僕はあまり好きじゃない。
宮台:そうなんです。今日はフランス人の方々も大挙して来ていらっしゃるようですが、フランスの恋愛文学の歴史って、そういうものですよね。ラクロの『危険な関係*15っていう書簡体小説が典型だけど、いわゆる「幸せな恋愛関係」とか「愛し愛される相思相愛の関係」なんて、実はクソと同じ。相手を騙し、放蕩にふけり、お互いそれを見せつけあって、その度が過ぎてお互い死んでいっちゃうんですよね。
カタン:いいですねぇ。
宮台:そして死ぬ瞬間に、「あ、何か見えたような気がする」みたいな。
カタン:おお。生ききった感じですねえ。 素晴らしい。
宮台:ほら、日本の明治時代以降の文学者の中でも、フランス体験のある永井荷風とか谷崎潤一郎ってのは、それに近い線でモノを書いていたんです。どうも昨今は、美しいものを美しいと思い、醜いモノを醜いと思い、幸せを幸せと思い、不幸を不幸と思うような馬鹿で溢れているようです。それを思いっきり嘲笑していらっしゃるのが、カタンさんなんだなって思うよ。
カタン:ああ、そこまでいけたらいいですけどね。まだ、自分の中では「覚悟が足んない」気がしますけどね。
宮台:もう、何言ってるんですか(笑)。カタンさんのおっしゃってることは、どこまで本気だか全然わからないので...
カタン:ああ、すみません...誰からも信用されない...(一同笑)何を言っても全然ダメだ。ところで先ほど宮台さんがおっしゃった、「汚いモノは汚い。キレイなものはキレイ。イイ関係はイイ関係」っていう予定調和が凝縮されたもの、『恋空』*16とかのケータイ小説とか、たとえば音楽のほうでも、ホントにパターン化、画一・相対化されたステレオタイプなもの、「もう、わかったよ」というぐらい蔓延しているのに、そこにそれを求める需要がある限り、そのコミュニティの中で商売が成り立っているわけですよね。
宮台:うん、まあね。最初の方に僕が言ったように、みんなからくり人形みたいなものだから。からくり人形がやって、からくり人形が聴いてると思えば、許せるんじゃないですか。
カタン:なるほど。そうですねえ、基本的にそういう人達をいじりたいっていう欲求はあるので・・・逆にそういう方達と"コラボレーション"するって言うんですかねえ。
宮台:(笑)
カタン:コラボしていきたいんですけど...たとえば、そのパターン化・からくり人形的コミュニティを音楽のジャンルに喩えて話すと、パンクとかロックとかジャズとかブルースとかジャンルの括りに関しても同じ現象があって。たとえばパンクが「破壊」「アンチ」を旨とする。とした場合、パンクのコミュニティの中だけで破壊を訴えるのっていうのは、まったく破壊になっていない。何を破壊するのか。誰に対して何をしているのかがおかしくなっていると思うんですよね。たとえば、テロリスト同士がイタズラしあっているのと変わんないっていうか。「おお、オレ、自爆やっちゃおう。オマエより先!(ばーん)」と。でも誰も死んでないし被害にもあってない。自爆プレイですね。「アルカイダで営業一位」みたいな。「オマエ何度でも生まれ変わるな。スゲーなオマエ。自爆してねーな。どうやって自爆みたいに見せてんだよ」みたいな盛り上げ方というか。そういうのを身内の中でやっているんならそれは破壊ではないでしょう。ホントに破壊なり、何らかの局面を変えたいんであれば、その中で安住してはいけないんじゃないかと。別にジャンルは関係なく、破壊的な役割ができていれば、それはパンクだなあと感じますし。もしくは、そういうのを全部包括するというか、「包摂」*17できるような感じの…
宮台:ああ〜! そうですね!
カタン:「包摂」のキーワードが出ましたね...そういった状況...いざ保守的にコミュニティ化してしまうと、狂信的な麻痺に陥る。...僕はやっぱりそれがイヤで「もういいや」って感じになっちゃったんですよね。で、「もう、めちゃくちゃでいいや。」と。まさに「コラボ」ですよ。自分の中で違和のあるモノを競演させ「包摂」したらこうなったというか...
宮台:今までの話を聞いて、ちょっとKing Crimsonのことを思い出しました。確か、何かのチラシに、King Crimsonのメンバーとカタンさんが一緒にやったことがあるって書いてあったんですが。
カタン:ええ、はい。一緒にやったというか前座をやらせていただいたんですが。トレイ・ガンとパット・マステロットが、KTUというフィンランドのアコーディオニストであるキンモ・ポーヨネンのユニットに、リズム隊として参加していて。そのときの前座をやらしていただいたんですけれども。
宮台:ああ、なるほど。なんでCrimsonを思い出したかというとね。たとえば、Crimsonって74年に1回解散した後、80年に再結成して、すぐに日本に来るんですよね。それで浅草演芸場でやったんですよ。
カタン:おおっ、そうなんですか(笑)。
宮台:ええ、僕それ見に行ったんですけども。フランク・ザッパで活動していたエイドリアン・ブリューっていうギタリストがいて。これがまた....ホントに見世物師なんだよね。
カタン:あの人は凄いですよね。
宮台:凄いですよね。で...カタンさんみたなギターを弾くわけ。
カタン:インチキなヤツなんですよ! あの人は...
宮台:本当のインチキ野郎で。みんな真面目にやってるってときに、エイドリアン・ブリューだけ踊りながらやってんの。それで音楽批評家達は「いったいロバート・フリップは、何を考えているんだっ! なんでこんなヤツをボーカルにしたんだっ」とか怒っているんです。「ああ、ロバート・フリップのことわかってねえな」と思ったんですよ。エイドリアン・ブリューみたいな変なヤツだから連れてきたわけですよ。みんながCrimsonでこーだのあーだのって思っている。フリップとしては、そういう思い込みのミットに、タマを投げ入れるのは、どうしても避けたかったんじゃないの? 「そんなに真面目で美的な聴き方は、やめてくれないか」っていうのがあったのかなって...
カタン:ああ、嬉しいですね。そういう感じでエイドリアン・ブリューみたいな人を連れて来たっていうことがあれば。
宮台:あとね、アラン・ホールズワースっていう速弾きと不協和音で有名なギタリストがいますね。今から十数年前、たまたま六本木を歩いていたら、六本木ピットインの入口に「アラン・ホールズワースのライブ」って書いてあって。「ええっ!」ってびっくりして店に入ったんです。まあ、不協和音だらけなんですが、なぜか速弾きを全然しなかったんですよ。で、みんな「速弾きしねえなー」とか言ってる。そしたら途中で、20秒か30秒くらいすっっっげー速弾きをしたのね。カタンさんみたいな。みんな「あああっ!」とかって盛り上がったの。そうしたら、本人は、すっげー恥ずかしそうーな顔をしたのね(笑)。で、「ああ、この人はわかってんだなー」って思ったの。「この人は速弾きの人だ」ってみんなが思っているところに出かけていって速弾きするのって、馬鹿でしょ? ホールズワースが「そんなところでオレを見てもらっちゃなあ……」って思うのは当たり前でしょ? 彼のため息が僕は身に沁みましたよ。「速弾き?ギターがうまい?だから何?」みたいな感じ?
 Crimson解散後に、U.K.っていうバンドが再結成されて、Crimsonのメンバーだったジョン・ウェットンとビル・ブルッフォードが加わっていたときのギタリストがアラン・ホールズワースだったのね。ホールズワースは、キーボードのエディ・ジョブソンと並んで「高度な技術に裏打ちされた芸術性」が評価されていたわけです。U.K.もそこが評価されていたんだけど、ホールズワース自身はそういう聴かれ方が不満なんだなってことがよくわかったんですよ。ミュージシャンっていうのは、受け手が想像するような枠の中で演奏しているとは限らないんだなっていうことも学べた。ロバート・フリップエイドリアン・ブリューのコンビを見ても、そう思ったんですね。その意味で、観客ってのは多くの場合、作り手よりも馬鹿です。最近は同じくらいかもしれませんが。その意味で言うと...カタンさんが有名になるってことは...難しい問題を含みます(一同大爆笑)
カタン:そうなんですよねー。方向性をね、決めないといけないんですよね。どうやって生きていったらいいか...
宮台:無理矢理に方向込みで提示する必要がありますよね。「美しいもの」だけ見せるとか。「コミカルなとこ」だけ見せるとか。
カタン:そうですねえ...たぶん...相手に合わせて...
宮台:「社会派」だけ見せるとか。
カタン:なるほど。器用ですね。そうなったらいいんですけどね。
宮台カタンさんには、そういう器用さがあるじゃないですか。
カタン:いや、つい本音を言ってしまうんで、だいたいバレてしまうんです。
宮台:さっきアラン・ホールズワースが恥ずかしそうな顔したって言ったけど、僕はね、「恥ずかしい」っていうのがカタンさんを理解するためのキーワードだと思うの。カタンさんは「自信がないから恥ずかしい」っておっしゃったけど、違うと思うのね。つまり、みなさんがベタだから恥ずかしいんですよ。「そんなものが面白いの?」みたいな。「そんなものが面白い」っていう感覚に御自身が共振するのが恥ずかしいんです。たとえば、誰かがカタンさんを「社会派」として受け取るとする(※カタン:声を出さすに笑い崩れる※)。「けっ、社会派かよ」って誰かが笑えばいいんだけど、「おおっ!ホントに社会派じゃんっ!!」みたいに言う人だらけで、恥ずかしく感じる。エコロジーをモチーフにしてるからって、そりゃねえだろうと。
カタン:「社会派」じゃなくて「シャカイ派」ってカタカナの言葉なんだって言うしかないですねえ。
宮台:速弾きして「なーんだ、また速弾きかよ」ってみんな爆笑したらいいんだけど、「おおっ、速弾きっ!すっげーっ!!」ってなると、恥ずかしい。
カタン:そうですね。「他のことの方が速いのにー」(笑)とか言いたい。面と向かって訊かれないと答えようがないですが。
「何でも聞いてください」って言っても何でも聞いてくれないんですよね。あとでちょっと質疑応答の時間を設けますね。たとえば、このギターについてもよく訊かれるんですが、...
宮台:ギターねえ...今回も見て思うんですけど、また一段と痛んでいるような...。
カタン:痛んでいますねえ。マゾなんでしょうね。でも、僕、普通のギターが逆に弾けなくって、スペックがこれ専用になってしまっているんです。...スペックって、僕のスペックがこれに合ってしまったということなんですが。とは言っても、「これがないと生きていけない」とか馬鹿なセリフは死んでも言わないと思いますけども。そんなことないじゃないですか。別に音楽なんてなくなっても、ギターなんか弾けなくても、死にゃあしないじゃないですか。でも、その辺を「それがないと死んでしまう」ふうに見せるほうが音楽を「商売」としていく上ではいいんでしょうかね?
宮台:そうですね。
カタン:なるほど...そうしなきゃいけないんだオレはこれから。
死んでしまうぞー...
ギターを弾かないと死んでしまう...
確かに死んでしまう...(念を込めている)
...あ、僕の中の何かが今死んだような気がします...
(一同大爆笑)
ああ...こんなことばっかり言って。

*1:ヤン・シュヴァンクマイエル:1934年チェコスロバキアプラハ生まれ。シュルレアリスト、アニメーション/映像作家、映画監督。長編映画作品に『アリス』(1988)、『悦楽共犯者』(1996)、『ルナシー』(2005)などがある。

*2:2007年9月4日(火) チェコ大使館で開催された「[シュヴァンクマイエルのキメラ的世界]と[日比谷カタン]を2007年9月4日(火)チェコセンターに於いて鑑賞する悦楽共犯者たち。」http://www.geocities.jp/qulwa/chimeres-katan.html のこと。『ヤン&エヴァ シュヴァンクマイエル展〜アリス、あるいは快楽原則〜』(http://www.lapnet.jp/eventinfo/img/cm/lm/070825_svankmajer/content.html)の関連イベントとして開催

*3:2007年9月8日エスクァイアマガジンジャパン&コロムビアミュージックエンタテインメントpresents「シュヴァンクマイエル ナイト」シネセゾン渋谷でシュヴァンクマイエルの13作品を上映した。http://columbia.jp/prod-info/XT-2485-6/info.html

*4:ブジェチスラフ・ポヤル:1923年生まれ。チェコの代表的なアニメ作家。人形、レリーフ、切り絵、セルなど色々な素材を使い分け、カンヌでの最優秀短篇映画賞を皮切りに、ベルリンやアヌシー等の映画祭で数々の賞を獲得。作品に『飲みすぎた一杯』『ライオンと歌』など。

*5:ジートルンカ(1912-1969):プルゼニュ生まれ。チェコを代表する人形アニメ監督にして人形作家、絵本作家。

*6:巻上公一:超歌唱家。ヒカシューのリーダーとして1978年から現在に至るまで作詩作曲はもちろん声の音響やテルミン口琴を使ったソロワークやコラボレーションも精力的に行っている。類いまれな歌のセンス、声の可能性の追求、斬新な切り口と諧謔精神を備え、歌謡曲から歌ともつかぬ歌まで、そのパフォーマンスは縦横無尽且つ自然体。http://www.makigami.com/

*7:アコギな野郎:日比谷カタンのBlog(http://blog.livedoor.jp/katanhiviya/archives/51619784.html)で「アコースティックギター愛好家が大挙集った掲示板」として言及されている。

*8:URiTA:シンガーソングライター。1999年BMGファンハウスよりデビュー

*9:イトケン氏がリーダーのバンド[Harpy]のギタリスト

*10:子門真人:歌手。代表曲は『泳げ!たいやきくん』など。

*11:漫画版『風の谷のナウシカ』(著:宮崎駿)、映画版『風の谷のナウシカ』(監督:宮崎駿)

*12:アーキタイプarchetype:ドイツ語Archetypusの英訳。ユングの用語。集合的無意識の領域にあって、神話・伝説・夢などに、時代や地域を超えて繰り返し類似する像・象徴などを表出する心的構造。祖型。

*13:「○○はカタカナです」というのは日比谷カタンのライブのMCで多用される表現。○○が示す特定のイメージをを曖昧にしたり、ニュアンスを和らげたり、他のイメージへの広がりを示唆したい場合に日比谷がよく用いる。

*14:『「世界」はそもそもデタラメである』(著・宮台真司)

*15:『危険な関係』 (著:C.D.ラクロ)

*16:『恋空』:著:美嘉のケータイ小説。2006年に書籍化、2007年に漫画化、映画化、2008年にはテレビドラマ化された。

*17:ここでは、異質なものを排除するのではなく構成要素として受け入れること。cf.社会的包摂